
深秋の候、いかがお過ごしでしょうか。先月は龍谷大学の職員であるアスレティックトレーナーとして長く活躍されている藤田さんにお話をお伺いしました。今月は早稲田実業学校にてアスレティックトレーナーをされている小出敦也さんインタビューにお答え頂きました。是非一読下さい!
---アスレティックトレーナー(ATC)になろうとしたきっかけを教えて下さい---
高校生の時は医学部を目指して勉強していました。高2の時にアメリカのロッキー山脈を2週間かけて縦走するプログラムに参加して沢山のアメリカ人と交流しましたが、衝撃を受けてアメリカの大学に行きたいと強く思いました。留学関係の雑誌の中にアスレティックトレーナーの資格がアメリカにある事を知り、大好きなNBAのバスケチームで働ける可能性を夢見てすぐにアメリカに行く決心をしました。当時、日本ではアスティックトレーナーという資格は聞いた事も、その資格を取得された方にもお会いした事もありませんでした。また高校のバスケ部時代は怪我ばかりで毎日整骨院に通っていましたが、学校にこのような素晴らしい専門家がいたらどんなに良いだろうかとも当時思っていました。
---アメリカでの学生トレーナー時代に苦労したことや大変だったことはありますか?---
大学のトレーナー学科では初めての日本人だったので教授も対応に困っている事もありましが、色々と工夫してくれ、本当に助けてもらいました。ディビジョンⅢの小さな田舎の大学だったので同じトレーナー学科の同学年には6人程しかいなく、皆で助けあって学ぶ良い環境でした。
ただ近くにあるDivision1の学校でのトレーナー実習があるのですが、そこに派遣されるためには教授から認められた優秀な学生しか行けませんでした。英語もまだまだ上手でない自分はあの手この手で教授に猛アピールしたり、寝る時間を一日に2~3時間しか取らずにひたすら勉強して良い成績を取ろうとしたり頑張っていました。やっとの思いで勝ち取ったIVYリーグのアメフト部での実習は最高でしたが、実習が始まって直ぐにトレーナーが使うゴルフカートを電信柱にぶつけた苦い思いでもあります。
---その他、アメリカで印象に残っている出来事がありましたら、教えてください---
NBAのセルティックスでは超優秀なヘッドトレーナーと私の二人しかトレーナーがいない時期も長くあり、若手で経験も浅い私は最初の頃は選手からほとんど信頼されていませんでした。半分は冗談で言っていたのだと思いますが、ロシア人のマッサージセラピストから「無能な人間は早く日本に帰れ」と毎日のように言われ続けて悔しい思いをしていました。ある日、体育館の裏口で落ち込んで座っていた自分を偶然に通りかかったポール・ピアースという有名な選手が親身に話を聞いてくれて、次の日からポールのテーピングから練習前後のケアなども全部見てくれと言ってもらいました。それ以降、練習日も試合日もポールのケアを担当していると他の選手からも色々な事を頼まれるようになり、いつの間にか全ての選手がブラザーのように自分を受け入れてくれるようになりました。Nomoというニックネームが元々ありましたが、Nomey the Homey(我が家のノモ)やNo-more pain(ノモで痛み無くなる)と言う素晴らしいニックネームで皆から呼ばれるようになりました。
---帰国後から現在の仕事に至るまでの過程を教えてください。---
帰国後は業界にほとんど知り合いもいなく、コネクションもありませでしたが色々な人に連絡をして
現場を見せてもらったり話を聞いたり、学会に参加したりスポーツの会場で挨拶回りをしていました。就活を開始してから半年間で300人位の方々にお会いしましたが、縁があって慶應義塾大学のバスケ部の専属アスレティックトレーナーと大学の非常勤講師のお話を頂きました。それ以降は実業団(現Bリーグ)や日本代表チームなどバスケ業界を中心に活動してきて、このままずっとバスケ業界で仕事するのかなと思っていたところ、色々とあり突然に契約満了となりました。今後の人生について長く悩みましたが、京都にある龍谷大学のスポーツ文化活動強化センターに勤務する事になりました。職場はプロのATが4人、SC5人の最高の環境で、純粋にスポーツを頑張る学生達をサポートする事でアスレティックトレーナーを目指した頃の熱い思いを取り戻す事ができました。もっと龍谷大に居たかった思いはありましたが、早実のAT公募が出たので受けてみて現職に就く事になりました。