第4回 JATO日本人ATCリレー形式紹介企画

皆さん、いかがお過ごしでしょうか。今週末は非常に強い台風が北上してくるとのことです。すでに、九州の方では試合やイベントの延期という話も聞いております。皆様、早め早めの対策し、身をお護りください。

さて、毎月15日にJATO会員の活躍をリレー形式紹介企画として、世界各国で活躍しているメンバーをFacebookHomepage (Blog)で紹介しています。
先月は、前JATO会長の泉さんから心温まるお話を聞かせて頂きましたが、今月は
JATOの事務局長として長年JATOの発展に貢献していただきました八田倫子さんから、貴重なお話をお伺いする事が出来ました。是非皆さんお楽しみ下さい!!

JATO広報委員 武井敦彦、石塚利光

 

---アスレティックトレーナー(ATC)になろうとしたきっかけを教えて下さい---

「大学浪人時代にテレビで、高校ラグビーの選手が最後の花園への大会予選中に腓骨を骨折し、チームは県代表になるものの、ご本人は花園に立てなかったというドキュメンタリーを見ました。PTの方たちがリハビリをサポートする様子が映っていて、当時理学療法士の存在を知らず「何という職業なのだろう」と思い始めたことがきっかけです。ほぼ同時期に草サッカーで捻挫をし、自分でテーピングをするために鹿倉二郎先生が執筆された本を手に取りました。巻末2ページにNATAATCの紹介が載っていて「これだ」と思い、受験を放り出して渡米準備を始めました。10年後に、その鹿倉先生の隣のデスクでJATOの仕事をお手伝いできるようになろうとは、当時は予想もしていませんでした。」

--アメリカ時代の一番の思い出は何でしょうか?---

「渡米当初は、Pre-AT Course のあるノースキャロイナ州の小さな大学にいました。この大学では人種間の確執が根深く、アジア人であることで学内や街なかで時々嘲笑されるという経験をしました。今思えば、渡米したてで英語が全くできなかったことも一因だったと思います。アメリカは何処でも同じと諦めていましたが、Pre-Courseを修了してOregon State Universityにトランスファーしてみて驚きました。必修科目でもない日本文化のクラスを毎学期数百人が履修し、常時空席待ちリストが出る人気ぶり。アジアや日本へ興味を持つ人が多く、良い意味でカルチャーショックを受けました。両親の理解と協力のもと、こんなふうに日本やアジアを外から眺められたことやアメリカの側面を垣間見ることができたのは幸運でした。

 実習での一番の思い出は、大学4年の時にレスリングチームを担当できたことです。渡米前のアルバイト先が、レスリングの強豪高校の真向かいにあり、元々レスリング競技に興味がありました。トランスファー先をOregon Stateにしたのも、ATとレスリングのプログラムが良いからというのが理由でした。でも実際には「計量があるので女子学生は担当できない」というのが周囲暗黙の了解事項。それでも実習の合い間にレスリング用の水や氷を準備し、練習が終われば片付けの手伝いに行くなど、小賢しく(?)アピールしました。担当が決まった時は努力が報われたと思い嬉しかったのですが、あとから聞くと、他にレスリングを希望した学生がいなかったことと、私のHattaという姓をヘッドコーチがご覧になり、”Ichiro Hatta(故・八田一朗氏:日本とアメリカのレスリングに多大な貢献をなさった方)の孫娘かと勘違いをしてくださったことが決め手だったようです。レスリングは冬のスポーツなので元日も練習がありましたが、疲れてアパートに帰宅すると留守電が入っていて、当時同じOregon Stateで学生トレーナーだった菊地聡氏や木村通宏氏らが「忙しくて何も作れていないだろうから」と家に招待してくれて、とても美味しいお雑煮をふるまってくれたことも温かく忘れられない思い出です。」

---帰国後から現在の仕事に至るまでの過程を教えてください(就職活動?の苦労話など)---

「就職が決まったため帰国しました。Oregon Stateで大学院の科目履修生をしていた頃、クレーマージャパン(埼玉・熊谷)より仕事のお電話をいただき、すぐにお受けしました。クレーマーでは、拾っていただいた外園隆社長を始め、部署の枠を超え多くの方たちに社会人のA to Z(基礎基本)を文字通りゼロから教えていただきました。クレーマーでの経験がなければ、後に担当することになるJATO事務局の業務もこなせなかったと思います。退社後も、上司や営業の方々から常時仕事先をご紹介いただいて、この業界での繋がりができました。当時から今まで20年近く続けている高校部活動をサポートする仕事も、元々はクレーマーの営業マンからのご紹介でした。また、会社設立時にお声がけいただき、昨年まで12年勤めたR-body projectでは、仕事人生のなかで最も多くの経験をさせていただきました。トレーナー業務以外の面でも多くの学びや気づきを下さり、JATOの事務局を数年間社内へ置くことをご快諾くださった代表の鈴木岳.氏には感謝の言葉が見つかりません。振り返ってみれば、これまでは就職活動らしいことを経験していません。むしろ今のほうが、今後自分がライフワークとしてやりたいことでどう生計を立てていくか、日々前向きに模索している気がします。」

---現在の仕事内容を教えて下さい---

2007年より、佐保豊氏が代表を務めるスポーツセーフティージャパンというNPOで講習会活動や事務局業務をしています。また、帝京平成大学での非常勤講師、週に数回私立武蔵高校中学サッカー部のアスレティックトレーナーをしています。」

 

---現在の1日の流れを教えて下さい---

「ルーティンは曜日によって変わります。平日は仕事先をはしごすることが多く、週末はサッカーのグラウンドにいることが殆どです。」

 

---八田さんにとってJATOとはどのような存在でしょうか?---

「同じ方向を向く方が大勢いらっしゃる安心・安全な存在です。かつて、JATOの事務局を長年担当し、JATOデスクがソニー企業、トライ・ワークス、R-body project、そして現在のスポーツセーフティージャパンへと移った変遷を経験しています。JATO業務のことが常に頭から離れなかった時代もありました。でも残念ながら私はJATOの立ち上げを経験しておらず、既に体制が整った良い状態で引き継ぎました。そのためか、前回の連載で泉先生が言及されたような『子どものような存在』というよりは、JATO事務局員を務めていた頃も辞めた今も、少し見上げるような気持ちでいます。物事は何でも一から起こすことが最も苦しく、大変な作業だと思います。会の基盤、シンポジウム運営の礎を築かれた鹿倉先生をはじめとする最初の理事の方々、そして泉先生とともに設立に多大なる貢献をされた戸辺詔子氏(現在シアトル在住)のお仕事を勝手に想像しては勇気づけられていました。現在事務局長を務められる辻直幸氏の真摯なお仕事ぶりも、同じ事務所で目の当たりにしています。JATOは私にとっては常に身近な存在です。」

 

---JATOに加入するメリットを教えて下さい。---

「今では想像できないことですが、昔、鹿倉二郎先生はNATAのコンベンションにておひとりで食事をされていた時代があったそうです。まだ他に日本人ATCがいらっしゃらなかったからです。私が最初に勤務したクレーマージャパンの外園社長が、『ひとりで仕事をしたら一人分の仕事しかできない。でも二人いたら三人分の仕事ができることもある』と社内会議でおっしゃったことをよく思い出します。ここ数年の理事メンバーやシンポジウム委員の方々、事務局員が力を合わせて日本在住のATCに提供してくださる恩恵(メリット)は、JATONATAの公式アフィリエイトになったことを含め数多くあります。すべてを最大限に享受できるのはJATOの会員だけです。」

 

---これからATCを取得してアスレティックトレーナーを目指している学生にメッセージをお願いします。---

IT環境のおかげでタテにも横にもネットワークに恵まれ、年々洗練されるATカリキュラムから得られる知識量も昔に比べ遥かに素晴らしい環境にいるのが皆さんです。情報をいくらでも取り込めるスポンジのような吸収力と、『将来こうしたい』という強いドライブで動ける瞬発力は一生のうちでも学生世代が断トツです。そんな皆さんが近い将来力を貸してくださり、一緒にお仕事ができる日を心待ちにしています。また、皆さんが帰国される時にその能力を活かせるような市場を今よりもう少し広く準備できるよう、私自身も微力ながら頑張ります。」

 

八田さん、お忙しい中インタビューにお付き合いいただきまして、誠にありがとうございました。JATO事務局長を長くされた八田さんだから感じるJATOへの思いとアスレティックトレーナーという仕事への思いがすごく伝わりました。あらためて、これまでのご尽力ありがとうございました!!そして、これからも、どうぞよろしくお願いいたします。


次回は、長くアメリカでも活躍されながらJATOの理事もしていただいておりました、あの方にインタビューしてきたいと思います。きっと、深イイ話が聞けると思いますので、是非しみにしていて下さい!!